今年も米子鳥取間駅伝に出場した。
この大会には我がチーム「SHORE」結成当初(1995年)から出場しているが、その前は4年ほど別のチームで走っていたので通算20年間米子鳥取間駅伝に出場してきたこととなる。
思えば長いが万感の思いに浸れる気持ちにはなれない・・・まだチャレンジャーである意欲がある証拠であろう。
この大会も多くのチームが参加をし、それぞれのレベルでそれぞれの目標を定め鎬を削っている。
今大会も天候に恵まれ暑いくらいであったが沿道の応援も多く力いっぱい魂の襷を繋ぐことができた。
初日はチームメートのサポートとして付き添い夫々の区間の仲間を応援し、その熱き戦いぶりを体に染込ませ翌日のレースに思いを込めた。
3区,若きホープの走り↓
5区,チームご意見番の貫禄ある走り↓
まずまずの順位で一日目を終え二日目を迎えた。
二日目のスタートは当社スタッフの”男”幸本が闘争心剥き出しの走りで良い流れを作ってくれた。
彼は直前まで福岡出張に出ており、下の写真を見ても分かるように休日もあまり練習は出来ていなかったようだ。
お城めぐり↓
炭鉱跡地見学↓
喫茶昭和にて↓
九州場所↓
・・・そんな状況でもよくぞ責任を果たしてくれた。
9区の幸本から順調にタスキが繋がり午後12時20分過ぎ、予定より若干速いペースで14区の私のところへタスキが渡ってきた。
私の区間は今年新たに設定された区間で4つの峠を含む長丁場のコースである。
スタート直後、まずは近差の銀行チームを追った。
最初の上り坂が一番勾配がきつく1キロ程度は続く・・・序盤から体力がものを言う区間である。
写真に写る相手は普段親しい間柄だがここでは敵である・・・お互い全力を尽くして次へ繋げなければならない。
何段目の峠だったか忘れたが猛烈な勢いで別の選手が一人追い抜いていった・・・。
その上る勢いは圧倒的な排気量の差を感じ、付いて行けないことをとっさに感じた。
大学生のようであった。
惑わされないようチーム監督車の声を忠実に聞き入れ自分のリズムとペースをきっちり守り続けた。 その間何人かを交わすことも出来た。
中間地点を越えた湖山池付近のフラットなコースに差し掛かったころ、いつの間にか先ほどの大学生を後ろに従えていた。
しかし私も相当苦しくなっていた・・・。
この先メリハリの無いフラットなコースが続くと思うと気持ちが折れ苦しさが倍増してきたのである・・・
監督車の声に支えられながら何とかリズムを意識するが、切れるか戦うか隣り合わせの状態であった。
おそらくこの地点まで来ると他の選手も皆同じ感覚であろう。
後ろの大学生の足音が全く消えない中 騙し騙し走っていると監督車から「もう一つ前が近付いて来たぞ!」と檄が飛んだ。
前を望むと確かに微妙な距離ではあるがもう一人選手が確実に近付いていた。
沿道でチームの上田君が「前の選手まで32秒!」と教えてくれた。
と同時に今の位置が終盤に差し掛かっていることで前向きな感覚が体を呼び起こしてくれた。
苦しいながらも更に体を前に出すことが出来、最後の峠を上り切ったところで何とかその選手に追い着くことが出来た。
その方は地元でも名を刻むトライアスロンの先輩である。 遠慮する事無く前に出たが、気勢と共に再び力強く抜き返してこられた。
熱い男の魂を感じた・・・。 と同時に負けたくない気持ちが未知の我慢に対する恐怖心さえよぎらせた・・・
前を見るとかすかに布勢の中継所が見えた。 そしてそこには次の区間の選手の集団も居た。
ようやくの自分の仕事の見通しを浚える気持ちで渾身のラストスパートを掛けた。
先輩の足音は無くなった・・・
ところが・・・もう一度中継所を見た時である
選手の姿が消えていた・・・
トップとのタイム差の規定によりタスキを待たずして同時スタートをしてしまったのである。
仲間は行ってしまった・・・
残念な結果だがこれも現実・・・悔いを残さぬよう最後の一歩まで全力で走り切った。
そしてゴール後は極限を競ったライバル達と健闘をたたえあった。
サポートしてくれた仲間や息子達と車で最終区ゴールの県庁まで移動するとレースを終えたメンバーが集合していた。
タスキを渡すことが出来なかった最終区の気象庁勤務”男”西村さんが‘はれるん’のポンチョを着て出迎えてくれた。
その日の夜の打ち上げは毎年恒例、メンバーのお店「ビザール」で祝杯をあげた。
米鳥駅伝は年間の一大レースの中の締めくくりのレースである。
やり切った安堵感で飲むお酒はとても美味い。
ただし満足とはまた違い次の一年をどう乗り越えるか・・あらゆる制約と向き合い切り抜けていかなければならない・・・苦しい鍛錬でさえ時間に阻まれることもある。
だからこそ苦しいレースに挑むのであろう。